長良川おんぱく2015 写真部の体験レポート2015
岐阜発祥昭和の伝説
一惠庵ロバのパン工房でプログラムが行われました。
ロバのパン本部の正式名称は、株式会社ビタミンパン連鎖店本部と言います。
※ 桑原貞吉が昭和2年に京都で、まんじゅうと蒸しパン屋を始め、それがビタミンパン、昭和30年代にロバのパンとなったのがルーツです。
案内人スタッフの挨拶、本日のスケジュール説明
そして、ロバのパンの想い。
※ 桑原貞吉は岐阜県の谷汲村に生まれ、尋常高等学校を卒業すると饅頭屋に丁稚奉公に入る。
そこでパン作りを習得し、音楽を用いた行商を行い、音楽が客を引きつける事に着目しました。
父を亡くしたのを契機に京都に移り、昭和の初めに饅頭屋を開店、懇意にしていたパン・饅頭屋からその店でしか作れない皮の弾けるパンの秘伝の作り方を学ぶ。
参加者の自己紹介
参加者方々自己紹介とロバのパンのへの想い。
音楽を聞いて家から飛び出し買いに行きました、そんなにおこずかいが無いので選ぶのに悩みました、ピンクのチョコレートパンが好きで横から出てきてるチョコを舐めました、ロバで売りに来たことなど知りませんでした、等々。
※ 貞吉は全国を歩いてチェーン店を募り、昭和6年に社名を「ビタミンパン連鎖店本部」としました、今は普通にあるフランチャイズチェーンの走りです。
デモンストレーション
まずは、案内人の山田さんより見本の作成。
粉の混ぜ方、水は冷水を使う、ダマにならないように、8の字を書くとこれくらいのになる固さ、など秘密の(笑)テクニックを教えていただく。
もちろん、温かい出来立てを試食しました。
※ 戦争、終戦の混乱期を経て昭和26年に一時は廃業したパン屋を再開。
昭和28年春には約50軒の代理店との取引にまで回復、そしてロバのパンが誕生する。
蒸しパン作り
ミックス粉と混ぜ合わせ、冷水を少しずつ練り上げます。
ダマにならないようにしっかりと。
※ ロバのパン、昭和28年夏頃浜松と京都で馬車売が始まりました。
その以前に北海道でリヤカーを改造しロバに引かせるロバ移動車がありました、ロバのパンの始まりは札幌ということになります。
桑原貞吉は北海道にあることは知らず、全国にロバのパンを広めていきました。
カップにグラシン紙を敷き、練り上げた生地をカップに流し込みます。
そして好きなだけゼリーをトッピング、こんなに乗せて大丈夫だろうか。
※ 昭和30年に入ると、♪ロバのおじさん チンカラリン チンカラリンロン やってくる♪ のテーマソングにお客様が集まって最盛期を迎えます。
蒸し器に入れて15分ほどで出来上がります、その間質問タイム、聞いたことをメモメモ。
※ 最盛期には全国に約170軒あり、連鎖店に加入してないお店もありました。
高度成長期になり食文化も多様化になりロバのパンは衰退していき、岐阜の地においても店舗は失くなりました。
出来上がり。
なかなかいい出来じゃないですか、美味しそうです。
※ そして岐阜での復活。
今回蒸しパン作りの指導していただいた山田さんが「ロバのパンが食べたい」と言った一言から始まりました。
ロバのパンの講習
パン作りと講習が今回のプログラム。
※印で記載しているロバのパンについてなど、岐阜弁で聞きました。
※ 山田さんの話を聞いたのが、案内人の代表の渡辺さん。
初めはしらを切っていましたが、1年くらい経って渡辺さんが「私が作ったろか」と言い山田さんは、渡辺さんの言葉が理解できなっかたそうです。
渡辺さんがロバのパンの関係者だと知る由もなかったからです。
そこから紆余曲折があり、数年経った2009年8月20日に岐阜での復活となりました。
作品の試食
自分で作った蒸しパンを食す。
食べる前には自然と笑顔になっています、一緒に参加した人とも打ち解けてきて、お喋りしながらいただきました。
※ 復活して、ワゴン車で曲を流しながら販売していると、その筋の方が買いに来たそうです、1万円を握り締めているその指も5本では無かったそうでビビって対応し話をすると、1万円握っているけどこれは100円なんだとこの景色はこんなに家は建って無く周りには田や畑で、目立つのは電柱くらいだけなんだと、そんな話を聞いてウルウルきたこともあったそうです。
お店
一惠庵 ロバのパン工房は岐阜市岩栄町二丁目17番地三栄ビル1階
販売は月~金の11時~15時で店舗で、15時~は移動販売(月は移動なし)
土日は日本昭和村で販売しています。
(016 平山)
岐阜新聞連載~写真部の感動お届け!
10月31日(土)
岐阜新聞朝刊に掲載されました。